走馬楼呉簡


 このネタは中国史コラムの初めの方でちょこっと書きました。数が数(木簡数万点・竹簡2000点)だけに、正式報告書が出るのは大分先になりそうです。

 一般書にもカラー写真が載るようになりました(中央公論社『世界の歴史』2 P.378)ので、ここでもメモ程度に纏めておきましょう。

 ※『中国文物報』にも写真が幾つか載っていますが、お世辞にも写りがいいとは言えません。上記単行本の方が遙かに鮮明なので、そちらを見てください。

 ネタは『中国文物報』1997/01/05号、及び『光明日報』1998/01/14号に基づいています。

追加:文物出版社より以下の書名の書籍が発売されています。私は高くて買っていませんが…。

長沙走馬楼三國呉簡: 嘉禾吏民田家莂/ 走馬樓簡牘整理組 編著
北京 : 文物出版社, 1999.9 2冊 ; 44cm -- 上;下 ISBN: 7501011591(上) ; 7501011591(下) 

全国の大学で所蔵している所の一覧

四大文明展の中国展にこの竹簡が何枚か展示されていました。


1.発見の経緯

  1996年の7月〜11月にかけて、湖南省長沙市(ここを見ている人で、長沙と言えば黄忠が思い浮かぶ人、多いだろうなあ・・・)の都市基本整備工事中、走馬楼等建設区域内に発見された古井戸の発掘作業中に、銅器や陶器等の文物3000点あまりの他、三国呉の嘉禾年間(232〜237年)の紀年を持つ木簡数万点、竹簡二千点が出土しました。『文物報』では新年早々の号で、この話題をトップで採り上げ「従来見つかった竹簡や木簡の総計を上回る数が出た!」と大々的に報じています。

 ※日本でも島根県荒神谷遺跡から大量の銅剣が見つかったとき、同じ様な騒がれ方をしていましたね。

 井戸の形式云々を書くと、話が長くなりそうなので止めておきますが、戦国〜清までの井戸61井からは、日常器が数多く出ており、また漢代の井戸からは「長楽」「未央」等と長安の宮殿の名前がある瓦当が見つかっていることから、おそらくこの地域は長沙郡の官署が在った地区ではないかと、『文物報』では伝えています。

 長沙が呉の治下に置かれたのは、呉が呂蒙・陸遜の活躍により、蜀の関羽を殺し、荊州全域を支配下に置いて後のことです。そこから280年の晉による全国統一までの期間、長沙は呉のものだったのですが、どうして官文書を井戸の中に棄てた(保管した?)のかは、今後の研究を待つ必要があるでしょう。

 今回の発掘の内、最も研究者を驚かせたのは、第22号井から見つかった大量の東呉木簡・竹簡です。内容については次の項目にて書きます。


2.内容

 走馬楼呉簡の文書類は、『中国文物報』によると、次の様に分けられています。
 ※幾つか私の推測も交えて、解りやすいように? 整理してあります。

1.券書(公的契約文書類)

 A:小作関係文書

何れも木簡で、縦:50cm 横:3cm 厚:0.7cm 前後
一簡辺り100〜160字前後

 B:官僚機構内文書

役所同士の銭・食料・器物等の移動記録

2.司法文書

訴訟関係文書
何れも、縦:24cm 横:6.5cm 厚:0.7cm 前後
上下二段に分けて書かれていた

3.長沙郡所属人名民簿

戸籍
戸主の姓名・年齢・身体の状況及びその他関連事項
殆どが竹簡に書かれ、縦:23cm 横:1cm 厚:0.2cm 前後
殺青されていない(油ぬきをしていない)
上下二段に分けて書かれていた

4.名刺、官刺

皆、目牘である
※名刺である以上、一枚物なのは寧ろ当然
朱然墓出土名刺参照

5.帳簿

(恐らく)長沙郡役所内部の出納帳
几帳面に書かれている
市場からの税金・田畑からの税金・関税・官吏の給料・賃貸表・月給表・年末決算表が出土

3.研究史的意義

 何度も書いていますが、大量の木簡・竹簡が出土したことだけでも、研究史的意義は大変大きく、また文献資料が少ない三国時代の東呉研究に際しても、これは当時の官文書という超一級の資料ですので、その意義は非常に重要です。従来突っ込んだ議論が資料的制約から、殆ど行われていなかった、東呉の政治システムの実体が次第に明らかになっていくでしょう。最もそれをやるのは、報告書が出てからですから、私より一世代〜二世代後になるかもしれませんけど。

 京都大学の冨谷先生が、岩波講座『世界歴史3 中華の形成と東方世界』で、走馬楼呉簡を採り上げています。その中で氏が以下の特長を挙げておられます。

A:簡牘の時代性

呉簡以降、書写材料としての紙はもう存在しているのですが、呉では実際に木簡・竹簡が使われています。
→紙との使用区別や紙の流通などとの関係はどうだったのか?

B:出土地の特徴

従来、中国本土から出土した簡牘類は、例外なく副葬品として埋葬された古墓からの出土品です。
※一枚辺りの幅が狭いのを「簡」広いのを「牘」と言います。←冨谷上記本の説明
→それ故に、法律文書や典籍が出土しても、現実世界と同じ次元で論じて良いか疑問。
※しかし、走馬楼呉簡は現実世界で実際に使われていた文章という特徴があります。

 氏が着目した二つの点は、確かに重要な点です。特に二つ目の点は、資料として扱う上で、従来資料批判をしてから検討する必要があった古墓出土簡牘と異なり、現実の一級資料として揺るぎ無い価値がある点に、大きな特徴があります。

 上にも書いたとおり、これで東呉の研究も進展する可能性が出てきたわけですが、出土遺物をダイレクトかつ大量に見られない、発掘当事者以外の人間にとっては、もどかしいったらないです。保存処理や、整理など大量の作業があるのは承知ですが、せめて写真だけでも早くみたいですね。しょうもない(粗が多い)報告付けられるくらいなら、香港辺りで印刷した綺麗な写真版本を出す方が遙かに嬉しいですよ。1996/12/27の記者発表によると、『三国呉簡牘博物館』なる構想をぶちまけているようですが、早くきちんとした保護・整理をしてほしいもんです。

 ちょっと今回は、最後に愚痴が入りましたが・・・ (^_^;)


三国志の頁