朱然について
朱然墓について
「謁」「刺」
脇息と下駄
これは孫權?
1984年6月7日に安徽省馬鞍山市(地図参照)にある紡績工場の拡張工事現場で、一基の墓が発見されました。
墓自体は既に盗掘にあっていたのですが、それでも漆器や陶器類を中心にかなり残っていました。副葬品中から、「謁」「刺」と呼ばれる木の板が見つかり、そこには、「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然再拝」と書いてありました。 そこから、被葬者は呉の当陽侯朱然であることが判明したのです。
朱然は『三國志』巻五十六呉書十一に列伝が載っています。
彼は、十三歳で呉の創成期を支えた朱治の養子となり、孫權の学友という背景もあって、順当に出世していきました。『三国志演義』では、麥城を脱出した關羽を捉えて大功を立てたものの、夷陵の戦いで趙雲に刺し殺された事になっていますが、実際は赤烏十二(二四九)年(享年六十八)まで生存しました。官位は先に挙げた高官にまで登り詰め、呂蒙亡き後、陸遜と並ぶ呉の軍事上の重鎮となり、魏の南進に対抗する責任者の一人でした。彼の死んだ際には、孫權が喪服をまとって哀悼の意を表したそうです。
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墓室は前後二室で構成されています。墓室全体は長8.7m×幅3.5m 墓道は南向きに長9.1mで斜道を作っています。
図を見てもらえれば判りますが、アーチ状部分の構造は、「四隅券進式」と呼ばれる構造の、最も古い実例だとされています。アーチで上からの圧力を四方へ流す構造をしていたからこそ、発掘されるまで構造を保っていたのでしょう。
出土品も、薄葬令が出ていた魏と違って、非常に数が豊富で、且つ豪華さを誇ります。まさに呉の重鎮にふさわしい埋葬形態だと言えるでしょう。
中でも被葬者の決めてとなった「謁」「刺」を初め、大量の漆器、焼き物類は、これまで判らなかった三国時代の絵画・造形資料として非常に貴重な物とされています。
次に、その中から幾つか紹介しましょう(これについては、徐々に追加する予定です。)。
※図版は『文物』1986年1期 掲載の物を元に作成 以下、何れも同じ。
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これまで、「謁」「刺」というのは、趙翼が「前漢では「謁」といい、後漢では「刺」という。」と定義して以来、それが踏襲され、両者は同じ物とされてきました。
しかし、朱然墓出土の「謁」「刺」のおかげで、両者が異なる性格を持つという事が判りました。
「謁」は、図の右側です。最上部中央に「謁」と書いてあり、一番右側に「持節右軍師左大司馬当陽侯朱然拝」と朱然の官職名が書いてあります。これは、格式張った用途や、目下の物が目上の者に拝謁を願う際に使われる物でした。
対して左側の「刺」は、「故[章β]朱然再拝 問起居 字義封」(標本:129)とあります。こっちは「朱然ですが、ご機嫌はいかがでしょうか? 」といった意味で、自分と親しい友人や、親戚同士の間で用いられる物であったそうです。
この「刺」には他にも「丹陽朱然再拝 問起居 故[章β]字義封」(標本:130)「弟子朱然再拝 問起居 字義封」(標本:122)という別文を記した物が出てきています。
文献上の用例としては、陸賈が謁を持して劉邦に面会を求めた話が『史記』に、禰公が刺を持って都に来たのはいいけれど、自分と同等だと見込む人物が見つからず、刺に書かれた文字が着物の中で磨り減ってしまった話が『三国志』にそれぞれ載っています。
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三国時代の人は、床に座って生活をしていました。よく漫画や小説などで「椅子に腰掛けた云々」とあるのは、間違いです。
それを裏付ける資料が、朱然墓からも出土しています。
それは脇息です。温泉旅館に行ったときに、座椅子の横にあって肘をかけるやつですが、それが出てきたと言うことは、紛れもなく、朱然は床に座って生活をしていた事になります。長さ69.5cm 幅12.9cm 高さ26cmの大きさで、黒地に赤い漆塗りというデザインです。
さらに言えば、出土した漆器に描かれている、宮廷生活図像も、床に敷物を敷いて座っている様子が見て取れます。
唐以降になると、西域から椅子に座る習慣が伝わり、やがて中国に定着し、床に座るという生活が途絶え、脇息そのものも廃れていきます。民国の章炳麟が「着物と下駄は中国古代の服装だ!」として、いつも日本の着物と下駄を履いていたのも、あながち嘘ではなかったと言うことでしょうか?
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朱然墓出土の漆器に、王侯貴族の宴会の様子が描かれています(標本:59)。
その中に、「皇帝」「皇后」とされる人物が描かれています(図赤丸 左は拡大図。)。
こういった図像の場合、特定の人物と言うよりは、モデル的な要素が強いので、その可能性は低いのですが、朱然は孫權より早く死去しますので、彼の在世時の皇帝は大帝唯一人です。もしかしてこれは孫權の画像なのかな、と想像を巡らせてしまいました。
他にも漆器類には「丞相」(陸遜か? )と書いてある人物画や、故事(「季札譲剣」)を表したものがあります。
その中には子供が戯れているほほえましい図像もあります。しかも、これは「蜀」から送られた物らしく、当時の両国間の交流が忍ばれます。
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参考文献 『人民中国』1983年12月号・『文物』1986年1期・金文京『三國志演義』の世界 東方書店1993