中国史コラム1997 10-11月分


1998 10-11月分

九太郎(というよりATOK12)のこと『死者の住む楽園』先月の『しにか』

手抄本について東洋文庫『詩経』Web上の中国書店

王制友の会注釈を読む『骨から見た日本人』

始皇帝暗殺(その1)new.gif (426 バイト)始皇帝暗殺(その2)(付:補遺)new.gif (426 バイト)小ネタ集new.gif (426 バイト)

中国史コラム目次


1998/11/30

◎小ネタ集

 11月も終わりますね。現在担当している授業も、後は課題を出すだけとなりました。大学生活が長いと、12月で一年が終わったような気がするので、世間とはかなり乖離しています。まあ「他の時間は勉強せい!」ということなんでしょうけど。

 先日ネットでYAHOOのニュースを見ていたら、兵馬俑坑博物館で、元々彩色付きで発見された兵馬俑を、復元展示する話が実現するようです。復元なのか、退色を押さえたものなのか、今一判断つきませんが、昔の遺物はこちらが思っているよりも派手だったという、よいサンプルになるかもしれません。

 今日のネタは、バイト中に見た『文物報』から拾ってきたネタを幾つか出します。

 相変わらず盗掘が頻発しているようです。日本では昔藤ノ木古墳を、発掘が終了したのに「大発見をしてやるんだ!」と息巻いて、石棺を破壊した子供がいましたが、あれは警察から大目玉&世間の恥さらし程度ですんだのでしょうけど、あちらでは死刑になります。盗掘裁判のネタは月一回くらい出ていますね。まあ青銅器や陶磁器が売れるのでしょうけれども、買う方も買う方ですが。

 あちらでは、現在博物館の建設や改装が盛んのようです。二年ほど前に新築移転リニューアルした上海博物館は、その流れの走りなんでしょうけれども、最近は大きな墓が出ると、そこに博物館施設を作ることが多いみたいです。以前は中央か、省都の博物館に収蔵されることが多かったみたいです。観光資源として注目されているのかもしれませんね。

 今年になって、以前紹介した朱然墓博物館の改築もそうですが、中国歴史博物館のリニューアル・中原のまっただ中である河南省博物館の改装等々があります。その他有名なのでは、例の三星堆の博物館が出来て、一周年だそうです。観覧記が『文物報』でやっていましたが、この記事が載っていた10月って、日本でまだ三星堆展やっていましたよねえ。幾ら大量の出土品が出たとしても、所詮穴は大きなので二つです。限度があります。う〜ん、本物はどこにあったのでしょうか? 日本での展覧会で飾ってあった展示品も、幾つか写真がありました。何時撮影したのか不明なのですが、まあレプリカを海外(博物館の展示室)展示に回すことはよくあることらしい(保存のためらしいです。)ので、きちんと断りさえすればいいんじゃないかと思いますが、あれだけ大々的にテレビで宣伝している以上、本物が来ていると信じたいところです(別に宣伝しているから本物だと言っているわけではないですよ。念のため。高い金払って偽物を見たというのが、ばかばかしいだけです。)。その筋の人に聞くと毎回「本物か?」と聞き返されるのは、ごもっともと言うところでしょうけれど?

 さて博物館といえば、9/20日付の『文物報』に陝西省寶鶏市の寶鶏青銅器博物館がオープンしたニュースがやっていました。ここは西安から渭水を西に行ったところにありますが、ここら一体は、秦が咸雍に移るまで勢力の中心としていた地域で、秦に関係する青銅器や墓が見つかっています。本博物館は、青銅器の展示を目的に作られており、かなり気合いが入っているみたいです。

 西安近辺の観光コースからは外れていますが、国宝級の青銅器10数件等、結構おすすめなものもあるので、時間のある方は是非一度お立ち寄りください。

 続いては、前漢の墓から出た蕎麦の実が、試しにやってみたら発芽した! というニュースです(09/23付)。何でも、今年の四月下旬に発掘された山西省の前漢墓から、二つの碗に入った200粒ばかりの蕎麦の実が見つかり、それがきちんと密封された状態で見つかったので、試しに種をまいてみたら、8月28に発芽した! ということです。この類のネタで言えば、古代エジプトの大賀ハスが有名ですが、今から2000年前の蕎麦の実って、ソバに打つとどんな味がするんでしょうね。

 さて、最後のネタは、齊の長城の話です(09/20付)。長城というと、普通明代に修築された万里の長城を思い浮かべるでしょうが、相手との国境沿いに版築で土壁を作り、敵を防御するという方法は、戦国期に顕著になります。有名なのは秦や趙の長城ですが、山東省にあった齊も、南方の方からはるばる攻め上がってくる楚を警戒して、南の国境沿いに長城を構築しています。

 これを作った時期や目的等は、今一はっきりしていませんでした。というよりも、現状でのきちんとした確認すらも行われていなかったようです。漸く一昨年から去年にかけて、フィールドワークでの探索が行われ、始点と終点の確認をし、三重の城壁群、のべ618kmにもなる長さも、始めて明らかになりました(現状では64%強が残っているようです。)。報告書を作ったようなので、そのうちどこからか流れてくるでしょうが、内部オンリーでそれっきりになることもしょっちゅうなので、どうなることやら。おもしろいネタなんですけどね。


1998/11/27

◎始皇帝暗殺(その2)

 その1では、いい加減な映画評を書きましたが、先秦史を専門とする私の目から見て、どの位つっこみどころがあるかをここでは書きます。「リアリティを極限まで追求!」とパンフレットに書いてあったので、意地悪く専門家の目から見てみることにしました。

 全般的に見て、よく史料とかに当たってるのような気がします。学生の頃見た中国映画『三國志』(上だけやって未だに下が上映されていなかったような)では、英雄豪傑がカンフーで大立ち回りを演じたり、50人ばかりの人数で「自称100万!」と称する大軍勢を復元したりと、なかなか笑わせてくれましたが、それよりは60億円もかけていることもあって、遙かにましです。

 といってもきちんと復元しているわけでもなく、映画の都合上実状とは違ったイメージを提示している個所もあります(この映画を全般的に見て、文献などをめくって推定したと言うよりも、復元図や兵馬俑等、ビジュアル的な史料を参照し、後はイメージから作り上げたという印象が強かったです。)。

 例えば秦王政の普段の様子。彼は髪を結わずにザンバラ髪で行動しているのですが、あの髪型は葬式や服喪の期間にだけやる髪型です。髪を結う気力もないほど、肉親の死を悼んでいる、ことを表現するためなんですが、まあこれは秦王政のやんちゃ(わがまま)ぶりを表す表現方法なんでしょうね。これは荊軻についても同じ事だと思います。

 次に映画では使者が走ったり、挙げ句の果てには荊軻がスキップしたり、秦王政が走るわこけるわと、非常に動きがバタバタというか、ダイナミックです。しかしこの時代、貴族たる者オフィシャルの場では「あわてず騒がず」がモットーです。小走りに使者が来るのはまだしも、スキップランラン? はちょっと無理がありますねえ。この映画では実に登場人物が「人間くさく」描かれています。今までの歴史物での登場人物といえば、なんだかものが判ったような偉そうな人物的な描かれ方が多かったのですが、ここではその辺の庶民と同じ人間として、喜怒哀楽にあふれた描かれ方をしています。この辺のアプローチが新鮮と言えば新鮮なんですが、貴族たるもの、やはり振る舞い方など、庶民とは違った教育を受けていると思うんですけどねえ。偉そうにしろ! とは言いませんがちょっと消化不良ですねえ。

 一番「おいおい」とつっこみを入れまくったのが、戦争のシーンです。当時の戦争の主役は、騎馬や歩兵の全軍に占める割合が増えてきたとはいえ、まだまだ戦車兵が大きなウェイトを占めていました。前回冒頭にも書いたとおり、この戦車の復元が結構いい感じだったので、映画を見に行く気になったわけです。但し、戦車が画面を疾駆するシーンは、実はそう多くありませんでした。この辺りは残念だったのですけれど、それでも色々チェックは出来ましたので、よしとしましょう。

 ポイントとしては、「サスペンションも無く、空気タイヤもない二輪車に乗る人間が、どの程度安定した姿勢を保てるか?」「果たしてすれ違いざまに戈で首を切れるのか?」という二点に注目していました。

 初めのポイントですが、結構安定して乗っているようでした。これは撮影テクニックの面もあるのでしょうけれど、少なくとも城内の道路を低速(ギャロップ程度)で走らせている分には問題ないようです。これはサラブレッドのような背の高い馬ではなく、背の低い馬在来馬を使っていることにより、重心が低くなっているのも良かったのかもしれません。確かに馬の選択では、リアリティと言えるでしょうね。日本の歴史物と比べて、そこだけはアドバンテージを見せています。高速で移動しているシーンは、殆どなかったので、余り確認できなかったのが残念です。

※ここだけ補遺

 この後、科学史関連の本を読んでいて気が付いたのですが、結局車高云々って、自転車やリヤカーと同じような感覚だと思います。チェーンが発明される前は、高速性の追求に推進元の前輪を大きくした自転車が登場しますが、戦車も車輪の直径を大きくすることで、高速になるんだそうです。安定性は、車高の高さ(高くなれば乗り降りが不便になりますけど)よりも、戦車と馬をつなぐ轅の長さの方が重要だったようです。

 小さい頃、母方の祖母の家に遊びに行って、そこのリヤカーに乗って遊ぶのが好きだったんですが、確かに二輪でも揺れなければそれなりに立てないことも無いです。轅の長さの方は体験できなかったのですが、これって重心に関係するのでしょうか?

 二つ目の点ですが、戦車戦のパターンは、だだっ広い平坦地を選んで(戦車の安定した乗用に必要)、初めに遠くから矢を射かけ、次にすれ違いざまに相手の車右と呼ばれる戈(長い柄の先端に90度の角度で本体が付く、逆L字型の兵器。)を持った人物の首を狙って、こっちの戈を振り回すんですが、果たしてこのときに、車右の首が掻き切れるか否か? について、論者で意見が分かれています。飛ばない! とする論者は、もし飛ばなかった場合、戈が引っかかって車右が戦車から落ちてしまうではないか? とするのですが、まあこればっかりは実験するわけにもいきませんので、確認しようが無いです。映画では、万が一撮影中に首が飛んでもいけなかったのか、すれ違った直後に、背後から引っかけていました。「その手もあったか!」と感心しましたが、これは戦車同士の速度が遅くないと使えませんので、常用していたとは言い難いのかもしれません。

 実際はケースバイケースなんでしょうけれども、殷〜戦国にかけての戈の変遷を見ると、最初は敵に打ち込む事を主とする兵器から、次第に掻き切る用途にも使えるような変化が見て取れます。首が飛ぶには、戦車同士の相対速度や、戈を振り回す速度、首に当たった際の運動エネルギーや、頸骨の間に上手く刃が当たったのか、等々、幾つか条件が要るのでしょうが、個人的には、首が飛ぶこともあったかもしれないと考えています。まあ首が飛ばなくても、引っかけて戦車から落としたり、頸動脈を切ることが出来れば問題ないと思うので、そういった用途も念頭にあったんでしょうね。

 また、映画ではこの戈を持った兵士が戦車に二人乗っているケースがありましたが、あれは変です。通常の戦車の構成は、御者が一人、車左と呼ばれる弓担当の者が一人(彼が三人の中で、通常一番偉いさんです。)、そして件の車右です。通常戦車のすれ違いは、自分の右側に敵が来るようにすれ違います。従って左手に戈を持った人物が居てもしょうがないわけです。映画ではことさら演出効果で、ずいぶんと互いが密着して描かれていますが、おそらく実際には自軍の戦車同士の間は結構開いており、左側に車右を廃しても無意味だったのではと思います。まあ、これの確認にはドラえもんの助けが必要ですが。

 戦車に関してのつっこみどころとしては、映画の冒頭で始皇帝が車上で剣を使うシーンがあります。「おいおい、そんなことしても相手に届かんだろう!」と思ったのは言うまでもないです。大体、お互いの車幅と、車軸受けの長さを考えると、どう考えても剣+腕の長さは勝ち目がないです。届く確率は戈に比べて格段に落ちます。兵器としては非常に効率が悪いですね。剣は歩兵用の武器です。呉越で剣が発達したのは、あそこら一帯が湖沼地帯ということで、戦車戦には不向きなため、歩兵戦が主流となり、そのため剣が発達したと考えられます。

 戦車といえば、通常の移動に際し、貴族が戦車に乗っての移動は考えられませんねえ。馬車も使っていましたが、その辺りの徹底ぶりはなんだか今一でした。

 移動といえば、趙姫が騎馬に乗って移動するシーンがありますが、どう考えても変ですねえ。急いでいるという事を印象づける演出なのでしょうが、やはりここは馬車に乗って移動しないといけません。以前NHKでやった孔子のアニメで、陽虎が騎馬で孔子にまみえるシーンがありますが、あれと同じくらい変でした。

 騎馬に関しても、色々とつっこみどころはありますが、やはり最大のポイントは、「鐙がある〜」ですね。現在の考古知見から、中国本土で鐙の使用が確認されているのは、西暦302年の埋葬になる湖南省西晋墓からの出土例(陶俑。片側のみ。おそらく騎乗用。現物は西暦340年の河南省からの出土例。)です。漢代には雲南省出土(当時、[シ真]国がありました)の陶俑に鐙が確認されていますが(これも片鐙)、前漢の景帝量培葬墓たる周将軍(周勃・周亜夫のいずれかと推定されています。)墓出土陶俑にはありませんでした(これは自分で現物を見て確認しました。)。従って、戦国末期に鐙が使われている可能性はないのですが(鞍はあります)、映画では「しっかりと」鐙、それも現代のとおぼしきものが映っていました。これはまあ、鐙なしで乗るという習慣が既に失われて久しいので、安全上やむを得ないのでしょうけれど、上手いこと見せないように撮影してほしかったものです。ちなみに、鐙がない以上、馬上での踏ん張りは足の裏ではなく、膝と太股で馬体を挟み込むことになります。従って馬に乗らなければ、太股の内側に脂肪が付く可能性が大です。だから劉備は「髀肉の嘆」をかこったわけですね。

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1998/11/25

◎始皇帝暗殺(その1)

 気が付けば今日が結婚一周年でした。月日がたつのは早いものです。今年は紅葉が遅れて、ちょうど先週末が見頃だったのですが、京都もだんだん寒くなってきました。みなさまもお風邪などお召しになりませぬように。

 この連休に、映画「始皇帝暗殺」を見に行ってきました。前売り文句は「大恋愛歴史スペクタクル!」というタイタニックを向こうに回したすごいものだったのですが、私的にはそういう前振りには「全然」関心がなかったんですけれど、何故か見に行く気になりました。

 その理由なんですが、本屋で立ち読みしたメイキングブックを読んでいて、「おお! 戦車が走っている。」「咸陽一号宮殿遺跡を実物大で復元している!」という二点を見に行きたかっただけです(この復元宮殿、観光施設として整備されているようです。浙江省横店にあって、パンフの裏にも見学ツアーの案内が出ていました。)。要するにスケール感の確認なんですけれど、特に戦車の復元が、写真で見た限り結構まともそうだったので、実際走ってみる映像が見たかったのが一番の動機です。

 実際のストーリーはみなさん見てください。まあ『史記』刺客(「しかく」ではなく「せきかく」と読まなければいけないらしい。「し」だと「刺す」という意味ですが、刺客列伝の場合、「刺す」ではなく、「殺す」という意味も含んでいるので、「せき」と読んだ方がいいのではないかと言うことでした。by師匠。)列伝の内容を頭に浮かべて見に行くと、確実にこけますけど。映画自体は、まあ『史記』などから幾つかのエピソードをピックアップして、監督が自分の美学で再構築し、それに幾ばくかのエッセンスを付加したものです。

 丁度始皇帝が成人する前〜30歳になるかならないか辺りの時間軸なんですが、なにせ主役の方が、当年44歳! 確かに演技は上手いです。それはよいです。でもねえ、ロウアイ(巨根で有名な偽宦官)の乱が起こったときには、丁度成人の時ですから…。芸達者だけどなんだかなあ、というのは、丁度昔大河ドラマで、西田敏之が若き日の西郷隆盛だの徳川吉宗をやったときのような状態ですかね。やはりイメージとしては、始皇帝=冷たいけれと意志の強そうな青年君主! というのがあります。俳優で言ったら、伊達政宗をやったときの渡辺謙といったところですか。

 ロウアイといえば、彼はナニを車軸に通して、それを車軸に車輪をぐるぐる回せるほどの人物だったらしいのですが、どうも宦官! というイメージが全面に出ているので、あまりマッチョな俳優さんを当てていません。彼も演技は達者です。始皇帝にこびている表の顔と、彼を侮蔑している裏の顔。その切り替わりが秀逸でした。

 この二人のやりとりで「しゃれにならんなあ」と感じたのが、こんなシーンです。食事時に始皇帝(当時秦王政)とロウアイ、それと政の母でロウアイの愛人たる母后(本当は彼女が趙姫なんですけど)が食事をしています。そこに、ロウアイと母后との間に出来た子供(当然、旦那が死んでからの子供なので、後宮で秘匿されている)が紛れ込んできます。そこでロウアイを見かけて「父親」とのたまうわけです。当然座の雰囲気は、凍りますね。まあ映画ではロウアイが適当に取り繕うのですが、これがロウアイの乱のきっかけとして描かれています。

 一応、この映画は「恋愛もの」らしいのですが、秦王政とコンリー演ずる趙姫の戯れ自体は、まあ子供の遊びの延長的描かれ方(除年齢。イマジネーションが大切!)ですので、あんなもんでしょう。しかし彼女が荊軻に惹かれていく動機付けが、どうもピンとこないというか、今一弱いです。前振りから「運命の恋」的なものをイメージしていたのですが、それは感じませんでした。どうみても「一人の女に振り回される男二人。」としか思えなかったです。

 お約束というか、最後に秦王政と対面した彼女は、「おなかにあの人の子供がいるの」と言って去っていくのですが、政の立場って一体??? 自分の為に一肌脱いでくれた彼女が、他人の子供を宿して戻ってくるのですから、たとえそれが直接間接的に自らに責があるにせよ、いい面の皮です。男としては情けないの極致ですね。

 一応パンフレットには、歴史年表がついているのですが、それを見ながら映画を見ると、パニックになります。時制の感覚ははっきり言って無視されています。それを象徴するのが、さっきの趙姫と秦王政の別れのシーンですね。かたや咸陽、かたや燕(現在の北京付近)に居たわけです。「おなかの子供が」という割に、おなかは目立っていません。一体何時出来たのでしょうね? 仮に男の失敗が判っていて、遺体を引き取りにきたとしても、北京で出来たとすれば、咸陽に来るまでに相当時間がかかります。身重の女性には酷な旅ですね。到着までに、男の遺体はどうなっているか知れたものでもないです。男と一緒に来たのならば、どこで出来ようが勝手なのですが、それだと折角の荊軻とのかっこいい別れのシーンが台無しになるので、それは違うでしょう。となると謎が深まります。まあ映画なので、よけいな詮索は、そこまでにしておきましょう。

 外にも謎の玉転がしゲームやら、ドリフのコントを見ているようなロウアイ一派が囲まれていくシーン、等々、個人的には笑いたいような楽しい? シーンがいっぱいありました。恋愛ものとしては、なんだかなあという出来ですが、つっこみどころが多いので、結構楽しめましたよ。映画館に行くのもよし、ビデオで見るのもよしですが、一度は見ておきましょう。

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1998/11/16

◎『骨から見た日本人』

 中央公論社、中央公論新社になるみたいですね。なにわともあれ、復活を期待しましょう。

 そういえば、世界の歴史、印刷もカラーだし、紙もいいのを使っていて、採算がとれるのか? と不思議がられていたそうです。もっとも私なんかそれが目当てで買っていたんですけど。

 気が付けば、現在の住居に引っ越してきて、丸一年が経ちました。去年の今頃は、段ボールの山に埋もれて、寝ていました。段ボール箱は小さいのに、中身が本だったため、引っ越しやさんがえらい往生していました。

 今日の話題は、骨についてです。以前、博士論文を書いたとき、「ある時期の死亡年齢の分布を考えるのに、考古史料を使えないか?」と考えていました。諮問の時に師匠と話をしていたら、「材料が少ないのもあるが、骨から得られる情報で、年齢を特定できるものなのか?」と一蹴? されました。私としては、それで引き下がるのも勿体なかったので、何かそういった類の本がないかなあと、頭の片隅に留めておいたんですが、先日本屋で丁度いい一般書を見かけたので、購入しました。

 骨から得られる情報というと、小学生の頃読んだ本にあった「インカ帝国には頭蓋骨に穴をあけて手術をしていた!」なんて記述くらいしか覚えがないです。後は漠然と骨折やら、歯のすり減り具合から年齢がわかるのかなあ? と想像していた程度です。

 骨の見方や、年齢の判別方法などは、巻末に簡単な説明があります。実はこれが目当てで買ったんですけど。これを読むと、骨が成長する青年期までの年齢を判別するのは、色々と材料があるので、比較的絞りやすいようです。成長が止まる成人以降は、恥骨結合面等を使うようですが、それでも30歳以降は余り変化が無く、難しくなるようです。

 この本を読んでいて、自分の不勉強さに改めて気が付きました。骨から得られる情報って、結構色々有るんですねえ。骨折はもとより、病気に伴う骨の異常・先天的傷害や、戦争による傷、打ち首の刀傷等々。結構記述や資料写真自体、生々しいものがありますので、食事時にはおすすめしませんけど。(^O^) 個人的にへえ〜 と驚いたのが、小児麻痺で四肢が萎縮した縄文人が、成人するまで生存していたことを伺わせる頭蓋の発達を見せていたことです。こういってはなんですが、イメージとして、こういった病気に冒された人が、長期間周りの世話になって生存していたというものを、全然持っていませんでした。今更ながら、自らの無知を知る次第です。

 そう考えると、発掘された骨を調べる仕事って、現代の医学の知識が欠かせません。著者の方も、現役の医者であり、専門は古病理学です。

 中国史の分野でこの方面の研究がどうなっているのか、不勉強なので、よく知りません。発掘報告書等を見ていても、骨が余り残っていないせいか、関心が薄いです。まあ、圧倒的な青銅器の方に関心の中心があるんでしょうね。あちらの方が見栄えがいいですし。被葬者の特定や、時期区分などを考える上で、出土人骨の年齢も大事だと思うんですけど。なかなか揃ったデータって無いですね。そういえば年輪年代法のデータも有るんでしょうか? 日本のは、結構できあがっているようですけど。

 そういえば、NHKでやっていた故宮で、長平の戦いで生き埋めにされたらしい、大量の人骨が見つかったとありましたね。あれだけのサンプルが有れば、色々とやれるのになあと思います。そういえば、何年か前に、燕でも大量の人骨が出ていました。

題名 『骨から見た日本人』
著者 鈴木 隆雄
ISBN 4-06-258142-6
発行年 1998
発行所 講談社(講談社選書メチエ 146)

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1998/11/09

◎注釈を読む

 前回にも書きましたが、今『礼記』王制を読んでいます。テキストは『礼記正義』を使っていますが、「正義」とは「正しいあり方」という程度の意味です。『礼記』の解釈はこうなんだ、という事です。『五経正義』ができたのは、唐太宗の治世です。当時の中央学壇が総力を挙げて編纂した書物です。中身はともかく、国家公認の解釈ということで、後世にもこういった形式の注釈書が幾つか出ることになります。

 注釈書というのは、元々のテキストを読むための導き手となるものです。文字の読み方、意味、地名、他書の用例、別なエピソード、系譜等々が書かれます。現在ではもはやそのままでは読めなくなった原文も、注釈を参照することで初めて解釈が可能となったり、注釈で文字の校訂を行うことによって、文意が通ずることも少なくありません。

 またこういった注釈には、現在既に見られなくなっている書物(佚書と言います)を引いてあることがあります。例えば『三国志』の裴松之の注は、別エピソードを大量に引いてあることで有名ですね。あれがなかったら、『三国志』をネタ元にする『三国志演義』で、多くの群雄豪傑が織りなす生き生きとした姿も、半減していたのかもしれません。

 こういった注釈に引かれている佚文をかき集めて、一つの本にしたものを輯本と言います。この手の書物は清朝の考証学者が色々と編纂しています。大定の輯本は引用元がきちんと明示されているので、もう一度原本に当たってみることも可能です。

 本来、こういった書物は、便利本的に使うことが多いですが、時々これに漏れているものもあります。例えば編者が当時見ることの出来なかった書物に引かれている佚文等ですね。日本に残されている古抄本等はその一例です。

 特に私のやっているような古い時代の研究では、こういった注釈書に引かれた文章を使うことがよくあります。実際論文なんかで使うときには、その場所だけピックアップして引用することが多いですね。「何々という本の、注釈に引かれている、とある書物にこう書かれている」てな具合ですね。

 論文を書くときも、大抵の場合、関係あるテキストとその注釈関連だけを見ることが多いんですが、うちの師匠が先日「書物や注釈というものは全体を読む必要がある。」と言っていました。どういうことなのかなあと聞いてみると「書物にしろ、その注釈にしろ、あるコンセプトに基づいて書かれている事が多い。そのコンセプトを念頭に置いて文章を見ないと、引用を間違えたり、おかしな解釈をすることになる。」との答え。

 これを『礼記』を例に説明すると、鄭玄にしろ孔穎達にしろ、それぞれ『礼記』とはこういった性格の書物であり、それぞれの編にはこのような意義が隠されている。ということを念頭に置いてかからないと、おかしな事になるということです。この類では、現行の『詩経』である『毛詩』の毛伝や序文などが挙げられるかと思います。最近の研究では、恋愛詩として認識されている詩篇を、特定の人物を誹っている詩であると解釈したりする場合、それが間違いというつっこみをする前に、注釈者が念頭に置いている、詩という書物に対するイメージを、こちらも同じように念頭に置く必要があります。

 作者のコンセプトを念頭に置かないと、先に書いたような佚文の扱い方も間違えることになります。これも例を挙げますと、『竹書紀年』という戦国魏の年代記があるんですが、これは西晋の初めに発掘されたもので、現在では既に佚書となっていますが、『史記索隠』『太平御覧』『水経注』等に引用されて、幾ばくかの文章が残っています。当然、『竹書紀年』にも幾つかの輯本がありますが、その内最も良いとされているのは、『古本竹書紀年輯證』という本です。これは近年出た本なので、日本にある本なども参照しています。しかし、この引用に誤りがありまして、『史記』の現存中最も古い版本たる旧米沢本の欄外書き入れ(コメントというか、メモみたいなものです。)に引用された『竹書紀年』を、書き入れという実体を理解していないために、あたかも引用元の書物が。日本に存在したかのようなコメントをしています。

 これなどは、書き入れという形式を理解していないために起こった間違いですが、注釈書も同様のことがいえます。特に、「何々にこうある」という書き方をしていない場合、どこかで自分の判断をして、この範囲が佚文であるという決定をしなければなりません。従って輯本それぞれがずいぶん異なることがあります。『世本』という先秦期の系譜等を記した書物がありますが、これの輯本は代表的なものだけで八種類もあり、分量・内容それぞれに大きな食い違いがあります。これは輯本制作者の判断で、これだけずれるという例なのですが、論文を書くときにも大いに影響してきます。果たしてそれが、佚文なのか? 注釈者のコメントなのか? という判断を過ちますと、自分の論拠もまたずれてくることになります。

 しかし、注釈書全体を読むことによって、作者のクセや文体などから、佚文の切り分けに関する判断をより妥当なものに近づけたり、従来そうとはされてなかった部分が、実は佚文であったという、新たな発見にもつながることになります。

 なんだか、だらだらと書いていますが、結局結論としては「安易な引用をせず、きっちりとテキストは読み込みましょうね。」という事です。

 昨今電脳の発達で、データベースを利用した検索が容易に行えるようになりました。中国関連でも御多分に漏れず、台湾の中央研究院に巨大なデータベースが設置されています。私もよく使うのですが、結局これを使うと言うことは、検索の労力を省くとともに、安易な引用を助長するという事にもつながります。検索にヒットした部分は、どう言った意図の元に書かれているのか? それはやはりテキスト全体を把握してこそ、総合的な理解につながるのではないでしょうか。要するに「木を見て森を見ず」ということですね。

 今日は、ちょっとややこしいことを書いてしまったかもしれません。悪文御容赦。

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1998/11/08

◎王制友の会

 昨日から、週一回のペースで『礼記』王制を読む購読会を始めました。名付けて「王制友の会」と言うんですが、これを見た先輩が「宗教団体みたいなだあ…」と。この名前を付けたのは師匠なんですが、果たしてきちんと最後まで読み終えることができるか否か、今からちょっと心配です。まあ、元々後輩と『孟子』でも読もうかなあと、夏休み前から計画は立てていたんですが、生来の無精と、自分だけでは心許ない気がしたので、師匠を引きずり込むことにしました。おかげで後輩は青い顔をしていましたが。

 『礼記』を読むことにしたのも、師匠との雑談が元になっています。「どの注釈書で読んだらいいですか? 」と私が聞いたら、「清朝の考証学者のではなく、唐代の注釈書で読む方が、勉強になる。」とのこと。で、一番この類のものでメジャーな、清阮元が校勘させた、宋刊本『礼記』注疏を読むことにしました。

 『礼記』という書物は、儀礼関係についてのノウハウ・理念・エピソード等、雑多な記述をまとめたもので、礼制の基本文献の一つです。大体漢代には材料が出そろっていたようで、現行の『礼記』は、戴聖という人物がまとめなおしたものです。後そこから『大學』『中庸』二編を朱熹がピックアップして、四書として『論語』『孟子』と並ぶ地位を与えましたので、『礼記』からこの二編を除いて数えることもあります。

 王制は、王者の制度を記した編だとされています。前漢の文帝の時期に、編纂された知見を、ダイジェスト的にまとめ直したのが、『礼記』の王制だと思われます。

 これにあれこれ注釈がつくのですが、有名なのは後漢の鄭玄が記した注ですね。彼は西暦200年に無くなるのですが、時代はこれから三国時代に入ろうかという乱世。よくこれだけの業績をあげたものだと感心します。ちなみに彼の同門たる盧植も、有名な学者ですが、彼に学んだとされているのが、劉備ですね。

 鄭玄の注の後、それにさらに詳しい注釈を付けた人がいます。有名なのは梁の皇侃・北周の熊安生です。これらをベースにして唐代初頭に編纂されたのが、孔穎達の『五経正義』です。今回はこれを読むことにしました。

 テキストの冒頭は、「王者ノ祿爵ヲ制スルハ、公・侯・伯・子・男、凡ソ五等。諸侯ノ上大夫卿・下大夫・上士・中士・下士・凡ソ五等。」とあります。これは「王者のヒエラルキーは、公侯伯士男、諸侯は卿大夫士に切り分けられる。」程度の意味なんですが、まずこれに鄭玄は注釈を付けるわけです。「二つの五(公〜男、大夫〜士)は剛(陽)柔(陰)五つの太陽に象る。」とあります。これは緯書を引いてあるみたいですが、鄭玄は今文学者なので、古文学に対応するためと、自分の博識を見せつけるために、緯書をよく引いてきます。

 緯書というのは、経書に対応する言葉で、経書に書かれていない深遠な事柄が書かれているとされています。まあ偽書なんですが、漢代にははやったんですねえ。これ。鄭玄や師匠の馬融はこれをよく使っています。

 鄭玄の注が終わると、孔穎達の正義です。正義ではまず、「王者」という語句に注目します。王者は「王となる者」という意味に解釈し、なんで三皇五帝の制度と言わないか、帝王制と言わないか、等々うじゃうじゃと論じています。はっきり言って頭が痛いですが。結論もごにょごにょしていて結構いい加減です。どうも『礼記』の正義って雑ですねえ。議論もなんだかすきっとしないし。

 話がだいぶそれてしまったような気がしますが、こういった唐代の注釈を何故読むかという事です。より細かい注釈ならば、清朝や近現代のものを見ればよいのではないか、という疑問がわくかと思います。確かに新しい注釈書は、本文の校訂をきちんと行っていたり、あちこちからそれこそ網羅的に集めた注釈や、別人のコメントが挿入されます。おかげで本文がどこにあるか分かりにくいくらいです。

 しかし、新しいおかげで、彼らの見つけてきた注釈の元というのは、結構現在まで残っていますので、自分で当たることも可能です。しかし、唐代の注釈というのは、それが引っ張ってきた典拠が、現在では既に見られないものであることも多く、また現行の書物でも、現在残っているそれとは結構異同があったりしますので、色々と考えさせられる事が多いです。議論自体も、その中身の正否はともかく、当時の中央学会で、そういった議論が有ったことを伺わせて興味深いです。

 まあ、読んでいて大変なのは確かです。読みやすいのは、やはり清朝漢文の方ですねえ。これからどうなる事やら。たぶん毎回怒られるのでしょうね。

 後輩が一言「なんで、これ、単位つかへんの?」 確かにそういう気分になります。私も担当が終わった後、「久しぶりに脳味噌使ったなあ〜」という状態でした。いかに普段勉強していないかもろばれですねえ。あんまり私の読み方がおかしかったので、師匠が途中から自分で読み出すし、冷や汗ものでした。(^_^;)

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1998/11/01

◎Web上の中国書店

 気が付けばもう11月ですね。今年も残すところあと二月になってしまいました。

 Webのニュースサイトを見ていたら、中央公論社が読売の傘下になってしまうというニュースを見ました。不況のまっただ中、出版社も苦しいみたいですね。今刊行中の『世界の歴史』、個人的には好きなんですけどね。やはり売れ筋の雑誌などを持っていない点が、ネックだったんでしょうか?

 出版社ではないですが、中国系の書物を売る書店も、貸し渋りの影響で、経営が大変みたいです。こういった書店は、学校まで行商にきてくれたり、掛け売り方式なので、お金がない院生には大変重宝したのですが、結局これが仇となって手持ちの現金が不足する状態になっているようです。こういった書店では、輸入販売以外にも、出版業に手を染めるところも珍しくないですが、元々数百部しか売れない世界のこと、そう儲けを出せるわけでも無し、しかも出版にはお金がかかりますので、最近ではそちらの方も新しいのが出てこないようです。

 更に、こういった傾向に拍車をかけているのが、インターネットの普及です。このコラムを見ているみなさまは、もうガンガンネットサーフィンを楽しんでおられるかと思います。中にはオンライン通販を利用されている方もおられるでしょう。この手のオンライン通販、当然出版業でも昔からありまして、パソコン通信のNiftyでは、東京八重洲の八重洲ブックセンターや、黒猫ヤマトの書店がありました。注文してからすぐ届けて貰えるので、結構使っていたんですが、パソコン通信ですから、会員限定という制限がありました。しかし、Webの普及でそういった制約もなくなり、インターネットという強みを生かして、(大げさですが)全世界を相手にした商売も可能になっています。この類の書店で有名なの、AMAZON.COMですね。世界最大クラスを誇るWeb洋書屋さんですが、日本からの注文も多いので、日本語ページも出来たくらいです。

 何故、こうも注文が多いのか? それはひとえに値段でしょう。日本の洋書取扱店は幾つか挙げることが出来ます。私はその手の書店で買ったことがないのでよく知らないんですが、経験者に聞くと大抵「高い!」という答えが返ってきます。これは中国書でも事情は変わりません。今平均して一元=百円程度のレートで販売しています。実際の為替レートは二十円弱ですので、五倍という勘定になりますね。これでも私が大学院に入った年には、一元=二百円程度でしたので、安くなったのでしょう。確かに現地に行って書店で買い物をしてみると、値段の感覚の違いには驚かされ、帰国してから日本で同じ本の値段を見ると、そのギャップに改めて驚かされます。

 文句ばっかり言っていてもしょうがないので、フォローもしておきましょう。確かに値段は高いですが、書店によっては、一般書店に比べて規模の割には働いている人数も多いので、人件費もかかるでしょうし、その分行商でこまめに学校を回ってくれたり、ある時払いにしてくれたりするので、非常に助かっています。専門的な日本書の品揃えが、一般書店よりも当然充実していたり、こちらの注文にも素早く応じてくれるなど、ありがたかったりする点もあります。

 しかし、日本書から上がる利益など微々たるものです。結局書店として成り立つためには、粗利率が遥かによい中国書を売るしかないのです。おかげで、大学の図書館には「誰が読むんかい?」という変な本が山のようにたまっています… (^_^;) 。これは骨董と同じで、売る方よりも買う側の目利きのなさに原因があるでしょうね。

 今まではそれでよかったんでしょうが、中国書店業界にも黒船がやってきています。最初は、現地に駐在員を置いて現地価格で本を買い、それをこちらに送ってきて、いくらかのマージンを貰う、いわば輸入代行業的な書店でした。これでも日本の書店で買うより、結構安かったですし、日本の書店で余り扱わない近現代の書物を求める方は、今でもよく利用されています。加えて、今やWebに香港・台湾、はたまた大陸の書店がホームページを開設し、日本からの注文をも考慮に入れた営業を開始しています。不景気とはいえ、まだまだ日本の購買力は、東アジアの中で有数のものなのでしょう。決済はクレジットカードなどを使った、現地通貨・もしくは米ドル立てなのですが、書店維持にかかる費用が日本より当然安いので、値段も最も安い場合、日本の半額程度までになります。特に大陸の書店は、当然元立ての元々の値段ですので、安いことは一番じゃないでしょうか? 日本の側も、値段が安いとなっては、当然飛びつくことになります。更に書店だけではなく、値段の高い考古関連書籍の出版元で知られる文物出版社も、独自のホームページを持ち、注文を受け付ける時代になりました。これは問い合わせていませんが、日本から買えるのかな?

 ※関連するリンク集は、「リンクのページ」の書店関連を見てください。

 私もこの類の書店を利用したことがありますが、簡単な中国語の知識さえあれば、利用も難しくないですし、何かあったときの応対も丁寧です。実際に本が確認できない点や、到着まで多少時間のかかることを除いては、おおむね満足しています。今では急ぎや、国内の本は日本の書店、時間がかかってもいいのはWeb書店などを利用するという形態に、移行しつつあります。

 さて、日本の中国書取扱店は、今後どうなっていくのでしょうか? 先ほども言ったとおり、値段的にはとうてい太刀打ちできません。現状でもそうでしょうが、大学などの研究機関に書籍を販売することで(この手の組織には、指定業者などの制度があるので。)、生き残って行くしかないかと思います。他には、高い本を、限定特価で思い切って値段を下げる、サービスを更に充実させる、古本の充実、自社出版等、書店の特色を全面に出す方向で、差別化を図るしかないでしょうね(尤も、これは既に打たれている手なんでしょうけど。)

 最近はE-MAILでの注文を受け付けるようになったり、ホームページを開設する書店も現れてきています。しかし、電子化の面では、遅れていると言ってよいでしょう。元々あちらの一般書店と、特殊な業界(といってよいでしょう)の書店ですから、元々の足腰の強さに差がありますので、仕方ないでしょう。更に、急速に充実するCD-ROMの出版物も、一応取り扱ってはいますが、それを操作し、営業できる人材がいないので、なかなか売れていないようです。個人的には『中國歴史地圖集』のCD-ROMがいけそうだなあと思うんですけどねえ。

 しかしそれでも幾つかの書店は、淘汰されるかもしれません。これは洋書販売業界でも同じ事だと思います。今までが、国内という壁に守られて、何とかやってきたのに、いきなり黒船が大砲打ちまくる時代がきたのですから、大変だと思います。私は今までこれらの書店にお世話になり続けてきたので、それぞれの本屋に愛着があります。

 最後に、「今後ともがんばってください」と願いつつ、今回の筆を置くことにします。

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1998/10/25

◎東洋文庫『詩経』

 台風が通り過ぎてしまったら、すっかり寒くなってきました。お風邪などめしておられませんでしょうか?

 今日のネタはちょっと古めです。といっても夏くらいの話ですが。

 『詩経』は、中国最古の詩集というよりも、経書の一角を占める重要な書物として扱われている書物です。その構成は大きく、諸国の民謡としての性格を持つ「国風」、宮中の舞楽である「雅」、祖廟を祀る際に唱われる「頌」の三つに分けられます。後世、孔子が『詩三百篇』を制定したという伝承のもと、儒家の基本書籍たる経の一角を占めることになります。現在でも中国古典文学を学ぶときには、必ずといっていいくらい頭に置く必要があると言えるでしょう。

 特に「国風」の諸編は、我が国の万葉集とも比較されるごとく、その文学的価値は高く評価され、訳本も多く出ています。しかし「雅頌」に関しては、祭祀や儀礼用の歌という性格や、訓詁の難しさ等も手伝って、なかなか一般向けの訳書としては出版される機会に恵まれませんでした。

 しかし、私のような歴史を扱う者にとっては、国風よりも雅頌を見る機会の方が多いです。なぜかというと、後世の書物が雅頌の一部分をネタとして引いていたりすることがよくあるんですね。例えば、『史記』の周本紀の前半より以前の部分は、系譜と『尚書』『詩経』『呂覽』等のピックアップで構成されています。従って、『史記』の該当記述を考える前に、それ等の資料をよく吟味する必要が出てくるわけです。で、ネタ元を探さねばならなくなると。

 結構こういう場合、分野が違うと訳本をよく使うことが多いです。本当は解釈がそれに引きづられるから、あまり訳本を信用しすぎるのもよくないんですが、脚注のコメントや語句説明など、みると便利な場所も多いので、重宝しています。個人的には集英社の漢文体系シリーズが好きなんですが、これって絶版になって久しいんですねえ。この類の物では一番レイアウトも見やすいし、語句説明もきちんとあるし、よくできていると思うんですけど。明治書院のは上下レイアウトがちょっと好みじゃないので、あまり使っていません。

 で、話を戻しますと、『詩経』というのは、他にも王朝や諸侯の歴史・始祖伝承等を含み、歴史屋さんから見ると、色々と中身が詰まっていて、いわば宝の山みたいなものです。例えば、商頌という部分がありますが、これは春秋期、宋の襄公の時代にまとめられた部分とされています。ここの玄鳥(ツバメのこと。)という詩は、殷の始祖伝説を唱っています。また長発という長文の詩は、殷の湯王の功業を高らかに唱っています。こういう詩に表れた祖先の事や、始祖伝承の背景には、その国家で長期間系譜や始祖の伝承が伝えられてきたことを伺わせます。『史記』殷本紀の系譜部分が、甲骨の発見によって、おおむねその妥当性が確かめられた背景には、殷の末裔たる宋国が、曲がりなりにも戦国後期にまで存続し、自国の系譜を伝えたことがあります。

 ちょっと話がはずれましたが、東洋文庫から白川静氏の訳が出ました。当初国風のみの訳だったので、雅頌も是非出して欲しいなあと前々から願っていましたが、ようやくこの夏までに雅頌が出、詩経の簡便な解説と訳本が揃ったことになります。しかもそれ以前の訳本が、とりわけ雅頌の部分がかなり古い物だっただけに、最新の訳本の出版は喜ばしい物があります。

 それでも、『国語』を『春秋左氏傳』の前に出来た物とするなど、白川氏が最新の研究を利用できない(これはお目を悪くされているところにも原因がおありでしょうが。)ところが、少々残念ですが、そういった多少のデメリットを差し引いてあまりある業績だと思います。上古音を句末に明記するのも、氏ならではの工夫でしょうかね。これを実際に発音して貰えれば、当時の漢字音が、今と大分違うというイメージがおぼろげに伝わってくると思います。そこだけでも声を出して読んでみてください。

 また、今回もとりとめもない記事を書いてしまいました。それではこの辺りで。

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1998/10/17

◎手抄本について

 週刊朝日百科『日本の国宝』の話は、以前中国関連の博物館で少しふれました。今回は別な話をします。

 このシリーズには、日本の国宝が一応網羅されていることになるのですが、その中に漢籍関連のものもいくつか含まれています。国宝となる以上、それは非常に貴重なものなのですが、漢籍関連資料は大きく分けて二系統に分かれると思います。

 一つは木版本です。これは有名な南宋黄善夫本『史記』三注合刻本(旧米沢本)等が当てはまります。この本は『史記』の現存木版本では最古にして、最良の部類にはいるとされている善本です。またこの本の特徴として、欄外の書き入れ(書き込みと言った方がいいかもしれませんが)資料の豊富さも挙げられます。これは刊本に引かれていない日本や中国の注釈家の説を、コメント的に書いたものが中心ですが、そこには既に散逸してしまった資料、特に『史記正義』の逸文が多く引かれていることで注目されています。『史記正義』自体は刊本にも含まれていますが、三注合刻の際、他注と重複する部分は削除されてりして、本来の面目を失っているようです(現行の中華書局標点本も、元本に比して、三注の幾つかが削られているみたいです。)。これを後年気が付き、自著に反映させたのが、滝川亀太郎の『史記会注考証』です。出版当初、中国側からは非難囂々だったようですが、最近では優れた注釈書として評価も落ち着いているようです。尤も、『史記正義の研究』という本によれば、この「書き入れ」というのを、欄外のコメントではなく、刊本自体に含まれているものだと誤解しているみたいですが。

 写真刊本が汲古書院から出ていますので、図書館などに入っていれば、一度見てみるとよいでしょう。ちょっと印刷が暗めですが、宋朝体特有の骨太の書体が、力強さを感じさせます。

 今日の本題はこれではなくて、もう一つの方です。こちらは唐代もしくは、その系統を引く手抄本(手で書き写した写本)です。これらは、宋元以降の木版本とは違い、唐以前の古いテキストの形を残しており、唐代のテキストの記し方を知る手がかりともなり、まま現在ではカットされている部分や、記述が異なる点もあり、非常に貴重な資料となっています。当然、現行本の校勘にも欠かせません。有名なのでは、石山寺や高山寺等が所有する『史記』『漢書』の手抄本や、五代〜宋初に改変された以前の形を伝える『説文解字』木部残巻(曾国藩・内藤湖南旧蔵、武田製薬杏雨書屋蔵)等が挙げられます。これらの中には、中国では既に全く別な形態になってしまった、『玉篇』の残巻等もあります。

 ただなにぶん長い年月を経ているので、それぞれ一部分だけの断片だけというのが惜しまれます。だいたいこの類の資料は、「自分の一番みたい部分に限って、欠けている。」ことが多いですね。先日閻立本という人の『歴代帝王図鑑』(唐代の模写 ボストン美術館蔵)の三国の曹丕・劉備・孫権の画像部分(カラー)の写真を探しているんですが、これが他の皇帝の図像は見つかるのに、この三人に限って見あたらない。それと似ています。

 また、この手抄本の特徴としては、博物館や個人ではなく、お寺や神社の所有が多いという点です。鎌倉〜室町時代にかけて、漢籍が読めるような知識人は、僧侶が多かったということも影響していますが、手抄本の一部分のみが残った事情は、それよりも別な理由があります。紙自体が貴重であった昔、要らなくなった反故紙でも、裏打ちの紙に使ったり、ひっくり返して裏側に文章を書いたりしていました。たまたま漢籍の手抄本がお払い箱になった後、その裏側を利用して写経をしたり、寺院の大事な文書の裏打ち紙に再利用したりして、表の文章の貴重さ故に、幸運にも後世に伝えられ、裏側の文章の貴重さにも気づいた後世の人が、巻物を裏表逆にまき直したりして、現在まで伝えたのです。

 日本史では、この類の文書類を紙背文書と呼んで、裏側の官公文書や日記類などを一時資料として分類するみたいですが、元々、裏資料の完全な保存など裏打ちの際、考えるはずもなく、肝心な部分が抜けていたりする制約もあるようです。これは先に書いたとおり、手抄本も同じですが、それでも断片とはいえ貴重な資料が伝わっているのは、仏典を大事にした当時の僧侶の努力のたまものでしょう。

 もしかして明治の廃仏毀釈がなかったら、もっと重要な資料が伝わっていたかもしれませんが、無い物ねだりをしてもしょうがないので、それはよすとしましょう。

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1998/10/16

◎先月の『しにか』

 御存知かもしれませんが、大修館書店から中国ものの雑誌『しにか』が出ています。今月号は蘇軾の特集みたいですが、今日書くのは先月号の特集、「中国の「食」」についてです。

 中国料理といえば、今更説明するまでもない料理です。それぞれがそれぞれのイメージを持っているでしょう。関係ない話ですが、セリーグでは、横浜が優勝しましたね。38年ぶりとか。これでセリーグだと優勝からもっとも遠ざかるのは、阪神になったのかな? その優勝セールの一環として、横浜中華街のレストランも安くなっていたようですね。うらやましい限りです。

 この特集の一項目として、学生・院生時代、(そして今でも)お世話になっている中村先生が、一文を寄せていますが、中身は宋元時代の料理関連書からピックアップしたレシピです。これについての中身云々については論評する身分にないので差し控えますが、これを読むと院生時代の思い出が色々よぎってきます。

 まだ学生から、どうにかして潜り込んだ院生の初年度、中村先生の授業でここにも出てくる『山家清供』を輪読しました。当然若輩の我々修士の一回生も担当割り当てがあって、四苦八苦して読んだのを覚えています。まあ元々(今でも)漢文を読むのは危なっかしいんですが、それにもまして、今まで経験の無かった料理書を読むという作業が疲れました。なにせなにを調べたらいいのか解らない。従って前に読む先輩のプリントから、何を使って調べたらいいか必死に読み解く。そしてそれを調べる・・・ の繰り返しでした。今風の食材辞典などありませんので、宋代の本草(薬になる植物・肉・鉱物等)書や『本草綱目』を必死に繰って、該当する食材を探したのを覚えています。その苦労の一環? は東洋文庫(594)の『中国の食譜』に入っています。御一読のほどを。今の院生も書物は異なれど、料理関係書を読んでいます。それを見ていると、自らの苦労を思い出します。といっても私はそれにこりて、大学院一回生以降、中村先生の授業はとりませんでした。同期の子は、指導教官である以上、五年間とり続けましたが。

 レシピ関係書を読んでいて、色々感じたこともあります。調味料に塩や発酵食品を使うだけでなく、その漬け汁を使うこともよくありました。今のしょっつるとかナムプラーの類ですかね。スパイスも定番とも言うべきものが使われていたようで(生姜・山椒・蘿・ウイキョウ・ミカンの皮等。おかげで当時はこれが呪文のように頭を巡ったものです。)、それでもあれだけのバリエーションが出てくるのは、食に対する飽くなき興味と欲求が、それだけのメニューを作り出したんでしょうね。

 読んでいて、「結構おいしそうだなあ。」と食欲をそそられたメニューもあるんですが、これだけはその場に居合わせた皆、「ゲッ」と思わされたのが一つだけあります。どの本だったかもう忘れましたが、壺に食材を詰め、ウ○コで周りを覆って密閉し、発行させる調理法です。実際の調理風景や、できあがった料理がどうだったのか、みんなでガヤガヤやっていたのを覚えています。

 お後がよろしいようで。

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1998/10/11

◎『死者の住む楽園』

 今日は滋賀県立近代美術館に、ディアギレフのバレエ・リュッス展を見に行ってきました。このバレエ団って、現代バレエの源泉のみならず、現代美術・音楽に与えた影響が非常に大きいんだなあと、改めて実感。音楽だけでも、有名な春の祭典や、三角帽子、牧神の午後等々、数え上げたらきりがないです。衣装デザインも、自分の所のデザイナーだけではなく、マティス・ピカソ・キリコ・ミロ・ローランサン等々、こちらもそうそうたる顔ぶれです。ディアギレフって稀代のプロデューサーだったんですねえ。でも看板ダンサー(男)が、結婚しただけで首になるって一体???

 さて、本題です。死後の世界といえば、怪談。これは普通夏の話ですね。昔パタリロ(そういえば、まだ連載続いているんですねえ。初めて読んだのが小学生の頃だから、かれこれ知ってから15年以上になりますか。はじめはマライヒを女とばっかり思っていました。はい。)を読んでいて、「死後の世界の話をします。」 「あのよ〜」と書かれて、思いっきり脱力した覚えがあります。

 中国人はすこぶる現実的な人達だといいます。では彼らの死後の世界観とはどうなっているのか? 今回はそんなことについて書かれた本を紹介しましょう。

 雑誌の『しにか』だったかの書評でこの本を見つけて、図書館で借りてみました。最初に読んだ印象は「先秦文献の扱いが甘いなあ〜」というものです。先秦文献に対する扱いには、慎重さが求められることについては、前にも書いたかもしれませんが、著者の年代もあってか、十把ひとからげに扱う感覚は、今では通用しないんのではと感じさせられました。ついでに一般書だからか、あえて踏み込んでいないのかもしれませんが、「おれはここまで資料を読み込んだぞ!」というのを見せつける記述がほしかったなあとも思います。特に崑崙山の個所に関しては、どうも該当する部分のピックアップにすぎないなあ、と思った次第です。

 人のこと言えるか! と言われてしまえば、へへえ、ごもっとも。としか答えられませんが、戦国〜六朝の資料をつまみ食い感覚で扱う記述は、自分のスタイルとずいぶん違うので、面食らったもの事実です。これについてどうこういうつもりはないですが、研究スタンスやスタイルの違いなんでしょうね。

 この本でおもしろいなあ、と感じたのは、挿入されている話の数々です。死後の世界にも現世と同じように官職があって、それぞれ現世の職を引き継いで働かされたり、息子が死後の世界でいい職についていないので、賄賂を出して転職させるとか、現世そのまんまの感覚が、日本仏教の説く天国観と違っていて、非常に楽しめました。

 もう一つおもしろいなあと思ったのは、始皇帝と漢武帝の不死を求めての行動と、その周りに群がる有象無象が巻き起こすはた迷惑きわまりない騒動の数々。徐福の話は有名ですが、今だったら「大量の密航者、和歌山沖に漂着! 中国公認の密航者か?」とでも新聞に書き立てられるでしょうねえ。徐福に拉致同然につれていかれた、同行者の人々の苦難を思うと、はた迷惑なのもたいがいにせいよ! と思い知らされます。今でも迷惑な人っていますねえ。トラブルメーカーみたいな人。特に誰とは言いませんので、みなさん、身の回りに思い当たる節があったら、思い出してください。

題名 『死者の住む楽園』
著者 伊藤 清司
ISBN 4-04-703289-1
発行年 1998
発行所 角川書店(角川選書289)

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1998/10/10

◎九太郎(というよりATOK12)のこと

 風邪もようやく治りかけです。今回の風邪は微熱となぜか膝だけが痛くなると言う謎の症状でした。まだふらふらしますが、週明けには何とかなるでしょう。御心配をおかけしました。

 紆余曲折? の末、博士号をもらえることになりました。土曜日に授与式があったのですが、未だに実感がありません。山田博士? なんか怪しいですね。(笑)

 本当はこのコラム、週一更新を目標にしているんですが、気がつくと月一更新となり果てています。毎日きていただいているお客様には、大変申し訳なく思っている次第です。はい。

 今日は10が三つならぶ日なので、それにちなんだイベントがあちこちでやっているかと思います。そういえば平成七年だったかなあ、地元に帰ったとき、七年五月八日は「名古屋の日」とベタな語呂合わせをやっていました。これだから名古屋はでっかい田舎と揶揄されるんでしょうけど。京都だったらもっともったいぶっているだけで、やることは対して変わらないような気がしますが。

 久しぶりのコラムなので、軽め? に、九太郎の話でもしましょう。私はてっきり宣伝で「お化けのQ太郎」を使うとばっかり期待していたんですが(昔この話をNiftyの一太郎会議室でふったら、理解してもらえなかった。ジェネレーションギャップですかねえ。)、内田由紀を使ってきました。明らかにMS-IMEを意識した比較広告でしたが、あれだとATOK12のCMと言い切ってもいいような気がします。もっともATOKねらいで買う人が多いのかもしれませんけれど。私も目的のほとんどがそれだったりします。

 さて、もう半月以上でてから時間がたちましたので、ATOK12は色々と使い込んでいます。「さらに賢くなった」との宣伝文句ですが、元々自分の辞書をかなり使い込んでいる上に、件の中国史辞書を入れているので、かなり変換にクセがあります。例えば「こうき」と入れると、いれると中国の元号がずらずらでてくる状態です。こういう技術的用語の変換は商売にならないので、はじめから全然期待していませんが、確かに普通の文章を書く分には、あまりストレスを感じなくなりましたね。個人的には、文字パレットが大きさ可変ウィンドゥになったことが非常に便利で気に入っています。

 ATOKの隠れた特徴、それはUnicode漢字がばんばん打てることです。あまり宣伝していませんが、辞書とフォントさえあれば、Unicodeがフルで打てます。従って今まで悩んできた漢字問題が、これで大分楽になると思います。まあUnicodeについてはお嫌いな方も多いでしょうけど、私はせっかくあるのだから、使わないともったいないと思うので、使うことにしています。

 今までこの機能は、JUSTSYSTEMのアプリでしか使えませんでした。しかしATOK12になったら、WORDでもEXCELでも使えるようになりました。これはWindows98やNT5.0を見据えた仕様なんでしょうが、これでMS-IME98(補助漢字の単語登録が出来ないそうですが)を大分リードしたことになるでしょうね。まあEXCELでの多言語入力にはちょっと工夫(冒頭にJIS該当部分を入れないと、JIS以外の部分が化ける。)が入りますが、文字パレットからのダイレクト入力が簡単に出来るようになったのは、よいことです。ATOK12のためだけに九太郎を買ってもいいくらいですね。おすすめです。はい。

 九太郎はほとんど使っていませんねえ。今回の九太郎は「ドキュメントナビ」機能がウリのようですが、ビジネス文書を書かない私にとっては意味がないです。ツールバーのアイコンの並びがずれた分、むしろ使いにくくなっています。試しにhtmlファイル編集機能を使ってみたら、せっかくUnicode書き出しがあるのに、JIS以外の漢字は、全て?に変換されてしまって全然メリットなし。その点ソースがむちゃくちゃ汚くなるものの、中国やUnicodeにきちんと書き出しが出来るWordの方が上ですね。関係ないですが、ここんところ、論文一本仕上げる毎に、一太郎のバージョンが上がるという状態です。十太郎になる前にきちんとしたのを書かなくては・・・。

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