三つある『呂氏春秋』の編纂時期
戦国末といっても、後の始皇帝、すなわち秦王政が即位して後、相邦の呂不韋が自らの食客達を動員して編纂させた書物に『呂氏春秋』があります。
ネタとして、「パパが息子に読ませるために作ったんだ~!」というのは置いといて…
この書物の成書時期について、よく知られている説として以下の三つがあります。
- 秦王政六(前241)年説
- 同八年(前239)年説
- 呂不韋死去後説
この内、上二つは
序意篇の「維秦八年、歲在涒灘、秋甲子朔、朔之日、良人請問十二紀。」の記述を根拠にしています。
『呂氏春秋』現存最古の注を書いた後漢末の高誘は、この「秦八年」を秦王政八(前 239)年とします。
これに対し、清朝乾隆~嘉慶頃の孫星衍は、秦王六(前241)年じゃないですか~と疑問を出したわけです(『問字堂集』巻二「太陰考」)。
始皇帝六年説の根拠
この根拠は、孫星衍の頃の干支から秦王八年までさかのぼると、干支(実際には木星の位置ですが、細かい説明は略)が二年くらい合わない~!
「秦八年」とは「秦が周王朝を滅ぼして八年目。だから実際には秦王六年だ~!」と主張したわけです。
それ以外にも、清朝を代表する考証学者王念孫は、「 八→六の誤りじゃねーの?」としました。この場合、結論は孫星衍と一緒ですけど、「秦が周王朝を滅ぼして八年目」ではなく、単に「秦王六年」という事になります。
で、この説が『呂氏春秋』を読む人にはデファクトスタンダードな意見とされました(『呂氏春秋新校釋』を書いた陳奇猷(陳奇猷「呂氏春秋成書的年代与名的確立」復旦学報(社会科学版)1979年5期)や明治書院から日本語訳を出した楠山春樹氏(『呂氏春秋』解説)はこの説を支持しています)。
古天文分野からの反論
しかし、新城新蔵(『東洋天文学史研究』弘文堂。1928年)など、中国古天文分野の研究者から、「孫星衍は、現行の干支紀年法をベースにした立論。超辰を考慮に入れてい ないし、また暦元が劉歆の構想によるものなのでそもそも前提がおかしい。三統暦に従った場合でも、間に二回の超辰を挟むため、241年になるはず。」という批判を受けています。
確かに、その通りであって、孫星衍は議論の前提からおかしいのは確かです。でも、なんで陳氏や楠山氏はその手の資料を見ていないんでしょう?
というのが疑問にありました。まあ、古天文分野はとっても難しいのでしょうがないと言えばしょうがないんですが。
新城氏は、『左傳』や『國語』『呂氏春秋』の太歳紀年について、それを前365年を暦元とする十二年単位の(超辰を含まない)太 歳紀年法によるものとしています。まあ、『呂氏春秋』の辺りで、それが切り替わるという想定なので、『呂氏春秋』に限ってみると微妙な立ち位置にあったりするわけです。
で、それをどっかに引っかけつつ、色々気が向くと調べるわけですね。そうやってアンテナを張っておいて、どこかで研究遂行のきっかけを見つける事になるわけです。
そんななか、先日、他の調べ物で出土文字資料を眺めていたら、これに関係するものを見つけました。
張家山漢簡『奏讞書』に見える始皇帝六年秋の日付
それが張家山漢簡の『奏讞書』です。これ自体は、前漢初頭(呂后期)の埋葬品なんですが、『奏讞書』には春秋~前漢までの事例集が収録されています。
そのなかの、簡227に「六年八月丙子朔壬辰」の紀年が見えます。これは報告書に始皇六(前241)年ではないかと注記されています。この墓(張家山漢墓)から出てきた竹簡に、高祖~呂后期のカレンダーも出ていますので、それと比較すると、報告書の指摘するとおりであることが確認できます。
で、さきほどの序意篇に戻りましょう。
「秋甲子朔」とあります。秋はこの場合、『呂氏春秋』十二紀のグループ分けに従うと7~9月に相当します。
で、先ほどの簡227から、秦王政6年の8月1日が丙子である事が確認できます。そうなると、序意篇の「甲子朔」は八月ではない。また、八月から計算すると、この分野のスタンダードな復元暦である張培瑜『中国先秦史暦表』で確認する限り、当時の秦が採用していた可能性がある顓頊暦・殷暦の両方とも、7月も9月もそれに該当する干支ではない事が確認できます。
※顓頊暦については、先日紹介した小沢氏の著書に、この顓頊暦は唐の一行がバーチャルに仮構した暦である旨、新城氏が既に気がついていた話も含めて書いています。そのため、当時の秦が採用していた暦は、殷暦(但し10月が年の初め)であるという理解をしていますが、これで合ってるのかなあ?
で、八年の場合、『中国先秦史暦表』の顓頊暦・殷暦双方とも、九月一日が「甲子」である事が確認されます。
というわけで、秦王政六年説は否定され、序意篇の「秦八年」は秦王政八年、という事になります。
呂不韋死去後説
で、序意篇の話は終わったわけですが、実は『呂氏春秋』成書時期に関する説はこれだけでは解決しません。
というのも、
「そもそも序意篇って、十二紀だけの序じゃねーの?」
「『史記』太史公自序に、呂不韋が死んだ後に『呂覽』ができたと書いてある。だから、呂不韋死後だ(キリッ)。」
という、反論があるからです。
『史記』の太史公自序
では、くだんの『史記』太史公自序を見てみましょう。
七年而太史公遭李陵之禍、幽於縲紲。乃喟然而歎曰、是余之罪也夫。是余之罪也夫。身毀不用矣。退而深惟曰、夫詩書隱約者、欲遂其志之思也。 昔西伯拘羑里、演周易。孔子戹陳蔡、作春秋。屈原放逐、著離騷。左丘失明、厥有國語。孫子臏腳、而論兵法。不韋遷蜀、世傳呂覽。韓非囚秦、説難・孤憤。詩 三百篇、大抵賢聖發憤之所爲作也。此人皆意有所鬱結、不得通其道也、故述往事、思來者。於是卒述陶唐以來、至于麟止、自黄帝始。
上述のように、この記述を根拠に、呂不韋が蜀に流されてから『呂氏春秋』が完成した。或いは、十二紀・八覧・六論はそれぞれ別個に編纂された(八覧・六論は流蜀後、食客が編纂し たもの)とする説が展開されているわけです。
でも、よくこの文を読むと、実はそれは間違いであることが了解されます。
この部分、「何人か悲劇の眼にあった人がいる→だけども現在に彼の編纂したこのテキストが伝わっているじゃないか~!」というロジックを並列して構成されています。
それが、単に時間の先後という組み立てではないことは、韓非の「韓非囚秦、説難・孤憤。」で明白になります。そもそも、秦王政が、それを読んで感動したから韓非を呼び寄せたのであって、幽閉されてから書いたわけではないです。それは、『史記』老子韓非列伝に書いてありますね。
ということで、呂不韋の部分も、単に「蜀に流されたけれども、今に『呂氏春秋』が伝わっているじゃないか」という程度の意味でしかないわけです。
従って、この記述を根拠に、『呂氏春秋』の成書時期を語るのはナンセンスというか、『史記』の文書構造わかってませ~ん、ということを宣言しているのも同じという事になります。
この段落全体は、こういった悲劇の人を並べて「おれっちも、大事なピ~無くしたけど、この書物が伝えられるはずだ~」という韜晦でしかないんですね。
後は、「序意篇って十二紀自体の序であって、全体の序じゃないからそれだけでは成書時期を決定できるわけ無いじゃん!」という意見。
確かにごもっともです。
これについては、個人的な見解として「食客集めてプロジェクトやってるんだから、パトロン死んだら続かないんじゃね?」とか「『史記』呂不韋列伝に一字千金の話あるじゃん。あれって、『呂氏春秋』が完成披露されていないと成り立たない話だよね?」という辺りから、秦王政八年を全体のそれとして、そんなに問題なかろうと考えています。
※ちなみに、黄偉龍「《呂氏春秋》成書考」『文献』(西北師范大学文学院)2003年1期。では、秦王政六年十二紀成書説に立っていますが、八覧・六論については、十二紀ができてからそれぞれ一年くらいで編纂されたんじゃね~の? という結論を出しています。
というわけで、『呂氏春秋』の成書時期に関する私の見解でした。
秦王政8年は前241年に比定されています。
新城氏は『東洋天文学史研究』573頁にて、前351年~前105年までの期間は「殷暦変法」が使用され、始皇帝21年つまり前221年から十月歳首となったと述べています。これを詳細に表現したものは同書618ノ2頁の後にある「戦国秦漢における暦法の進展」という折り込みの表です。ここには明確に前221年から「殷暦第二変式」の十月歳首が開始されたと記されており、新城氏は秦王8年当時は十月歳首は施行されていなかったと考えていたのです。
実際のところは、「編年記」の記載などから秦王8年当時は十月歳首だったのですが、新城氏はこの件に関し「殷暦第二変式」などという根拠なき誤った名称を与えてしまったのです。新城氏は春秋の暦法も「殷暦古法変式」という名称を与えており、「殷暦」の定義は極めて無責任です。
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